味の素の2026年3月期を、まず全体から見る。売上高1兆5,837億円、事業利益1,811億円。日本を代表する食品会社の決算である。
セグメント別に並べると、こうなる。
- 調味料・食品 ── 売上9,369億円 事業利益1,430億円(利益率15.3%)
- 冷凍食品 ── 売上2,903億円 事業利益84億円(2.9%)
- ヘルスケア等 ── 売上3,415億円 事業利益662億円(19.4%)
- その他 ── 売上149億円 事業利益60億円
ここまでなら、調味料が主力の食品会社という当たり前の絵である。ところがヘルスケア等の中身をひとつ開けると、様子が変わる。
電子材料を含むファンクショナルマテリアルズの売上は1,007億円。事業利益は546億円。利益率54.2%である。
この数字を最初に見たとき、私は計算を間違えたと思って二度見しました。
売上は全社の6.4%しかありません。ところが事業利益は546億円で、全社1,811億円の約30%を占めています。
利益率54.2%。主力である調味料・食品の15.3%と比べて、3.5倍です。同じ会社の中に、これだけ性質の違う事業が同居している。
そしてこの事業が何かというと、半導体のパッケージに使う絶縁フィルムです。うま味調味料の会社が、です。順番に見ていきましょう。
事業稼働チャート
うま味調味料の副産物から始まっている
ABF、正式には味の素ビルドアップフィルムという。半導体のチップと基板をつなぐパッケージの、配線と配線のあいだを絶縁するための薄いフィルムである。
半導体のチップを保護し、基板と電気的につなぐための「入れ物」のこと。チップが高性能になるほど配線が複雑に何層も積み重なるため、層と層のあいだを電気的に隔てる絶縁材料が必要になります。ABFはその絶縁層をフィルム状にしたものです。
起点は1970年代にさかのぼる。味の素はうま味調味料をつくる過程で、アミノ酸と、その周辺の樹脂に関する知見を大量に溜めていた。会社はそこから、アミノ酸のノウハウを応用した絶縁性のエポキシ樹脂の基礎研究を始めている。
転機は1990年代だった。パソコンがMS-DOSからWindowsへ移り、CPUが高集積化していく。配線が複雑に積層された回路基板をつくるために、新しい絶縁材料が必要になった。
ただし、そこには難しい課題があった。当時の絶縁材料はインクの形をしていた。これをフィルムにしなければならない。有機物であるエポキシ樹脂と硬化材、そして無機のフィラーという微粒子を、均一に分散させたうえで、絶縁性と加工のしやすさを両立させる必要があった。
1998年9月、味の素ファインテクノを設立。1999年、世界初のフィルム状パッケージ基板用絶縁材料として発売し、同年、大手半導体メーカーに採用された。いまや世界シェアは95%とされ、パソコン向けではほぼ独占に近い。
ここで立ち止まりたいのは、「なぜ食品会社にこれができたのか」という点です。
答えは、たぶん逆なんだと思います。食品会社だからできた。アミノ酸を工業的に大量生産し、不純物を精密に管理し、有機物と無機物を均一に混ぜる。この一連の能力は、うま味調味料を安定してつくるために磨かれたものです。
半導体材料メーカーが持っている能力とは、出どころがまったく違います。だからこそ、誰も先回りできなかったのではないでしょうか。
自社の強みを業種で語ると、この発想は出てきません。「うちは食品会社だから」で止まってしまう。能力で語れば、出口は業種の外にもあります。
富士フイルムとの、決定的な違い
技術を別の市場へ移し替えた話として、NEWFORでは富士フイルムの記録も扱っている。写真フィルムの技術が、チェキや放送用レンズや医療へ移っていった話である。
ただ、この2社には決定的な違いがある。
富士フイルムが動いたのは、本業が消えたからだった。写真フィルムは2000年をピークに10分の1以下まで縮み、2006年には5,000人規模の構造改革を迫られている。移し替えは、生き残るための選択だった。
味の素の本業は、消えていない。調味料・食品はいまも売上9,369億円、事業利益1,430億円の主力である。利益率15.3%は、食品会社として十分に高い。
技術の移し替えは、本業が傾いてからでなくてもできる。むしろ余裕があるうちのほうが、条件は良いはずです。
追い込まれてから始めると、短期で結果を出すことを求められます。味の素のABFは、1970年代の基礎研究から1999年の採用まで約25年、利益の柱として認識されるまではさらに時間がかかっています。この時間は、本業が苦しい状態では絶対に確保できません。
自社の既存事業がまだ元気なら、それは「次を作らなくていい理由」ではなく、「いま作りはじめられる理由」だと考えてみてください。
買うのは食と医療、育てるのは技術
年表を並べると、この会社のもうひとつの型が見えてくる。買収の対象と、自前で育てた事業が、きれいに分かれている。
買ってきたものを並べる。味の素ゼネラルフーヅ(2015年、270億円)、ブラジルの日清との合弁持分(2015年、325億円)、アフリカのPromasidor(2016年、約558億円で33.33%)、トルコのオルジェン(2016年、約74億円)、米国のキャンブルック(2017年、約72億円)、そしてForge Biologics(2023年、約828億円)。
食品と、医療・バイオである。地理的な広がりを買い、製品の幅を買っている。
一方、ABFは買っていない。アミノインデックスも、StemFitも、自前の研究から出てきたものだ。この会社は、市場は買うが、技術は育てている。
他社が開発した薬を、代わりに開発・製造する事業。2023年に約828億円で買収したForge Biologicsは、遺伝子治療薬のCDMOです。味の素は2016年のジーンデザイン買収から、この領域に段階的に足場を作ってきました。
そして、手放すことにも躊躇がない。2015年に欧州の甘味料事業、2018年に香港アモイ・フード(2006年にダノンから取得した会社)、2025年には医薬品の無菌充填を担う味の素アルテアを米PCIへ譲渡している。
買った会社を10年前後で手放す。この動き自体は、他の会社の記録でも何度も見てきました。
ただ味の素の場合、手放しているのはどれも「買ってきたもの」です。自前で育てた技術系の事業を切り出した例は、年表の中に見当たりません。
買ったものは市場環境で入れ替える。育てたものは持ち続ける。意識的にそうしているのかは分かりませんが、結果としてこの線はきれいに引かれています。
担当者の視点で見ると
この記録から、明日の仕事に持ち帰れることを3つにまとめる。
ひとつ。自社の強みを、業種ではなく能力で書き出す。「うちは食品会社」で止めると、出口は食品の中にしかない。「アミノ酸を工業的に大量生産し、不純物を精密に管理し、有機物と無機物を均一に混ぜられる」と書けば、半導体材料が視界に入る。企画書の1行目に書くのは、業種ではなく能力のほうがいい。
ふたつ。本業が元気なうちに始める。味の素のABFは、研究から採用まで約25年かかっている。この時間は、本業が傾いてからでは確保できない。既存事業が好調であることは、次を作らない理由にはならない。むしろ唯一の好機かもしれない。
みっつ。買うものと育てるものを、あらかじめ分けておく。この会社は市場を買い、技術を育てている。そして手放すのは、買ってきたもののほうだ。何を自前で持ち続けるかを決めておくと、買収の判断も、手放す判断も速くなる。