2014年に合意した買収が、製品になったのは2023年だった
2014年2月14日、キヤノンは米モレキュラーインプリント(MII)の連結子会社化について、同月5日をもって合意したと発表した。MIIが持っていたのは、解像力20nm以下の微細加工ができるナノインプリント技術である。
キヤノンは同じ資料で、この技術をこう説明している。「ナノオーダーのパターンが刻まれた原板(マスク)を基板(ウエハー)に直接押し当てることで微細パターンを転写する技術」。光を当てて回路を焼きつけるのではなく、ハンコを押す。それまでの露光装置とは、方式そのものが違う。
その技術を使った半導体製造装置「FPA-1200NZ2C」が発売されたのは、2023年10月13日だった。合意から9年8か月が経っている。最小線幅は14nmで、キヤノンはこれを「既存の最先端ロジック半導体製造レベルの5ナノノードにあたる」と書いている。
事業稼働チャート
回路の型を彫ったマスクを、ウエハーの上の樹脂に直接押し当てて形を写す方式です。レンズを通して光で焼きつける露光装置と違い、光学系という「間に入るもの」がないぶん、型の形をそのまま写せます。キヤノンは2023年10月13日、この方式の半導体製造装置を世界で初めて実用化したと発表しました。
そこから先も速くはない。2024年9月26日、米テキサス州の半導体コンソーシアム Texas Institute for Electronics への出荷を発表した。2026年1月13日には、この技術を応用した IAP(Inkjet-based Adaptive Planarization)技術で、直径300mmのウエハー全面を一括の押印工程で平坦化し、表面の凹凸を5nm以下に抑えることに世界で初めて成功したと発表している。装置としての製品化は2027年中を目指すとしている。
ここは、数字を並べるより時間を並べたほうが見えると思います。
2014年に合意、2023年に発売、2024年に出荷、2026年に応用技術、2027年に次の装置。買ってから12年以上にわたって、同じ技術がずっと同じ会社の中で扱われています。
新規事業の会議で「3年で回収」と言われた経験のある方は、この年表を一度見ておいて損はないと思います。この会社は、買った日を始まりとして数えていないように見えます。
買った会社に名前をつけるまで、1日から9年10か月まで
時間の使い方の差は、もっと分かりやすいところにも出ている。買った会社に「キヤノン」という名前をつけるまでの時間だ。
いちばん短いのはアネルバである。2005年9月30日に日本電気から全株式を取得し、その翌日、10月1日付で社名をキヤノンアネルバ株式会社に変えた。従業員1,025人、資本金18億円の会社が、1日で看板を替えている。
東芝メディカルシステムズは約1年だった。2016年12月19日に普通株134,980,000株を約6,655億円で取得し、議決権所有割合100%の完全子会社にする。社名がキヤノンメディカルシステムズ株式会社に変わったのは、2018年1月4日である。
いちばん長いのがオランダのオセだ。2010年3月4日、公開買付けでオセ株の71.3%を確保したと公表した。ここが商業印刷への入口になる。そして2019年10月1日、キヤノンはオセホールディングB.V.の社名をキヤノンプロダクションプリンティングホールディングB.V.へ変えると発表した。変更日は2020年1月1日。子会社化から9年10か月が経っていた。
そして、いまも名前が変わっていない会社がある。スウェーデンのAxisだ。2015年4月8日に公開買付けが成立し、2018年10月22日には97.9%(68,000,798株)を保有して Nasdaq Stockholm の上場廃止を申請している。それでも同社は、いまも Axis Communications として自社サイトを持ち、そこに「1984年に設立」「参画グループ Canon Group 2015年以降」と書いている。
買収のあとに必ず出てくる「看板をどうするか」問題について、キヤノンの記録は4つの答えを持っています。
1日で替える(アネルバ)。約1年かけて替える(東芝メディカル)。9年10か月かけて替える(オセ)。替えない(Axis)。
並べてみると、買った相手の名前がその市場でどれだけ通っているかで、時間が変わっているように読めます。看板を替える早さは、統合の熱心さではなく、相手の名前の値打ちで決まる。そう考えると、社内で説明しやすくなるかもしれません。
46件のうち21件が、外から取り込む動き
年表を数え直すと、キヤノンの46件のうち21件が「買収」「子会社化」「公開買付け」「取得」と書かれた動きだった。相手の数にすると16社になる。オセ、Axis、東芝メディカルのように、発表・完了・完全子会社化と何段階も踏んでいる相手があるからだ。
では自前で始めたものがないかというと、そうではない。2014年3月19日に産業用カメラ、翌4月21日にマシンビジョン。2019年11月には高精細画像とAIで橋やトンネルを見るインフラ構造物点検に入り、幅0.05mmのひび割れを捉える性能を示した。2020年8月5日には移動ロボットの眼になる映像解析ソフトを出し、日本電産シンポの搬送台車に採用されている。2024年6月6日には、ラマン分光で黒いプラスチックを見分ける選別装置「TR-S1510」の受注を始めた。搬送速度1.5m/秒で、最大1t/時を選別できる。
未確認事業年表
- 2005.10アネルバを子会社化し真空装置に参入9月30日に日本電気から全株を取得。従業員1,025人・資本金18億円の同社は10月1日付でキヤノンアネルバに商号を変えた継続中
- 2007.01SED株式会社を完全子会社化東芝が持つ株を買い取り出資比率を100%にし、薄型ディスプレイSEDの単独事業化を決めた役目を終えた
- 2007.12トッキを子会社化し有機EL装置へ第三者割当増資を約59億2,140万円で引き受け、議決権66.44%の筆頭株主になった継続中
- 2009.11オランダのオセ社買収を発表1株8.6ユーロで公開買付け。全株取得なら730百万ユーロ。従業員は約22,000人継続中
- 2010.02ポーランドのオプトポルを子会社化眼科診断機器メーカーの株89.35%を約78億8千万円で取得。光干渉断層計の分野に入った継続中
- 2010.03オセ社を子会社化し商業印刷へ3月4日、公開買付けでオセ株の71.3%を確保したと公表。商業印刷への本格展開を始めた継続中
- 2010.08SEDパネル事業の提供を終えた8月18日、SED株式会社を9月30日付で解散し清算すると決議。SEDパネルの研究開発業務はキヤノンで続けるとした役目を終えた
- 2011.11CINEMA EOSで映像制作市場に参入EFシネマレンズ7本とEOS C300など計9製品を発表し、2012年1月下旬から順次発売した継続中
- 2013.03オセ社の完全子会社化と統合を進める2010年の子会社化から3年をかけ、商業印刷事業の一体運営を進めた継続中
- 2014.02モレキュラーインプリント社を買収解像力20nm以下のナノインプリント技術を持つ米社の連結子会社化に、2月5日付で合意した継続中
- 2014.03産業用カメラ市場に参入3月19日に参入を発表。光学技術と映像処理技術を生かした製品を投入した継続中
- 2014.04マシンビジョン市場に参入4月21日に発表。前月の産業用カメラに続き、産業機器の品ぞろえを広げた継続中
- 2014.06マイルストーンシステムズ社を買収IPビデオ管理ソフトのデンマーク企業。売上高54.6百万ユーロ、従業員389人継続中
- 2015.02スウェーデンAxis社にTOB開始1株340スウェーデンクローナ。全株取得なら約236億クローナ(約3,337億円)継続中
- 2015.04Axis社の公開買付けが成立4月8日に結果を公表。売上高5,450百万クローナ、従業員1,941人の同社を傘下にした継続中
- 2015.10富士通と映像ソリューションで協業ネットワークカメラの映像を使うソリューションを共同開発すると発表した継続中
- 2016.03東芝メディカルシステムズ買収を発表普通株134,980,000株を約6,655億円で取得すると発表。同社の売上高は2,799億円継続中
- 2016.12東芝メディカルの子会社化が完了12月19日に取得を完了し、議決権所有割合100%の完全子会社にした継続中
- 2017.02東芝医用ファイナンスを子会社化株156,000株(65%)を取得。既に35%を持つ東芝メディカルと合わせグループで100%継続中
- 2017.06欧州でアーカスグローバルを設立キヤノンヨーロッパが企業向けクラウドビデオ管理サービスの新会社を立てた継続中
- 2017.08小型ロケット開発の新会社に参画キヤノン電子など4社が資本金1億円で設立。キヤノン電子が70%を出資した継続中
- 2018.01キヤノンメディカルシステムズへ社名変更1月4日、東芝メディカルシステムズが社名を変更。取得完了から約1年後継続中
- 2018.05映像解析のブリーフカム社を買収2007年設立のイスラエル企業。7月3日に完全子会社化を完了した継続中
- 2018.10Axis社を完全子会社化10月22日時点で97.9%(68,000,798株)を保有し、Nasdaq Stockholm の上場廃止を申請した継続中
- 2019.04パイオニアと3D-LiDARを共同開発4月17日に共同開発契約。パイオニアが目指す量産化にキヤノンの光学技術を持ち込んだ継続中
- 2019.07日本医療機器開発機構に出資医療機器ベンチャーを支える JOMDD に出資し、案件に参画する形をとった継続中
- 2019.10オセをキヤノンプロダクションプリンティングに10月1日に発表し、2020年1月1日付で社名を変更。子会社化から9年10か月継続中
- 2019.11MRIコイルのQED社を子会社化米 Quality Electrodynamics の持分70%を取得。メディカルの部品内製を強めた継続中
- 2019.11インフラ構造物点検事業に参入高精細画像とAIで橋やトンネルを点検。幅0.05mmのひび割れを捉える性能を示した継続中
- 2019.12米国の眼科機器事業を移管したキヤノンUSAの眼科機器事業をキヤノンメディカルシステムズUSAへ渡し、画像診断に寄せた役目を終えた
- 2020.08移動ロボット市場に参入AGV・AMRの眼になる映像解析ソフトの提供を開始。日本電産シンポの搬送台車に採用された継続中
- 2021.09カナダのレドレン社を完全子会社化CT用半導体検出器モジュールの会社。フォトンカウンティングCTに向けた布石継続中
- 2022.04英イーデール社を完全子会社化ラベル・パッケージ印刷機の会社。商業印刷の対象をパッケージまで広げた継続中
- 2022.11米国にCanon Healthcare USAを設立2023年1月にオハイオ州で始動。従業員約20人で米国のコンポーネント事業を統括する継続中
- 2023.03細胞製造装置事業の立ち上げへ資産取得3月23日に発表。京都製作所から装置・特許・図面を譲り受け、3〜5年での立ち上げを目指す継続中
- 2023.09ボリュメトリックビデオスタジオを開設森ビル・バスキュール・日本IBMとの4社で虎ノ門ヒルズに撮影スタジオを開いた継続中
- 2023.10ナノインプリント半導体製造装置を発売10月13日、5ナノノードにあたる最小線幅14nmに対応する「FPA-1200NZ2C」を発売した継続中
- 2024.05ハイデルベルグ社と印刷機で提携枚葉インクジェット印刷機の販売で独社とグローバル提携に合意した継続中
- 2024.06黒色プラスチック選別装置の受注開始ラマン分光を使う「TR-S1510」。搬送速度1.5m/秒で最大1t/時の選別ができる継続中
- 2024.09ナノインプリント装置を米TIEへ出荷9月26日、米テキサス州の半導体コンソーシアム TIE への出荷を発表した継続中
- 2025.11キヤノン電子にTOBを実施所有割合55.01%の同社に1株3,650円で公開買付け。親子上場の解消を示した継続中
- 2026.01ウエハー平坦化技術を世界初実用化1月13日発表。直径300mmウエハー全面の凹凸を5nm以下に抑えるIAP技術。2027年中の製品化を目指す継続中
- 2026.03米国で複合機再生事業を本格始動3月10日発表。2026年4月からキヤノンバージニアで生産。部品リユース率は1台あたり90%以上継続中
- 2026.09自由視点のスポーツ観戦を遠隔で実証アジア競技大会のバスケットボールを約100台のカメラで3Dデータにし、IOWN APNで川崎・虎ノ門へリアルタイムに送って、約60名がMRデバイスで好きな視点から観戦した。本人は世界初と記載継続中
- 2026.10プリンターのクラウド型機能拡張を始動生成AIとイメージング技術で書類や画像を解析し、目的に合わせて整理する機能を、アプリの拡張ツールとして足していく仕組み。第一弾は家庭用のPIXUS向けで、すでに使われている機種にも対応する継続中
- 2026.10家庭用プリンターの見守りサポートを開始オフィス向け複合機のサービス基盤DSFを家庭用のPIXUSに広げ、クラウドで状態を見守って通知し、生成AIのチャットで困りごとに答える。すでに使われている機種にも対応する継続中
この2つの並べ方を、私は分けて読まないほうがいいと思っています。
買った21件は、ほとんどが「装置」か「部品」か「ソフト」です。アネルバは真空装置、MIIはナノインプリント、レドレンはCT用の検出器、QEDはMRIのコイル、ブリーフカムは映像解析ソフト。
自前で始めた側は、産業用カメラ、マシンビジョン、インフラ点検、移動ロボットの眼、プラスチックの選別。どれも「見る」仕事です。買うほうと作るほうで、はっきり役割が分かれているように見えます。
「3〜5年で立ち上げる」と、最初に書いている
時間の話に戻る。キヤノンは、かかる時間を最初に外へ言うことがある。
2023年3月23日、キヤノンは京都製作所と、治療用などに細胞を大量製造できる装置技術の譲渡契約を結んだと発表した。譲り受けたのは装置、特許、図面などである。この資料に、こう書いてある。「3〜5年で細胞製造装置事業の立上げを目指します」。
2026年1月13日のIAP技術の発表も同じで、「2027年中にIAP技術を用いた装置の製品化を目指します」と期限が書いてある。始まりの発表で、そこから何年かかるかを添えている。
役目を終えた記録の書かれ方も、この会社らしい。2007年1月、キヤノンは東芝が持つSED株式会社の株を買い取り、出資比率100%として薄型ディスプレイSEDの単独事業化を決めた。2010年8月18日、薄型テレビの価格が想定以上に大幅かつ急速に下落したとして、SED株式会社を9月30日付で解散し清算することを決議している。ただし同じ資料に、SEDパネルの研究開発業務はキヤノンにて継続する予定だと書かれている。会社という器は畳んでも、研究そのものは本体に残した形になる。
担当者の視点で見ると
キヤノンの46件から持ち帰れるものは、「買ったあとの時間を、あらかじめ予算に入れておく」という一点だと思う。
MIIの合意が2014年2月5日、装置の発売が2023年10月13日。この9年8か月のあいだ、この技術は売上を立てていない。それでも社内に残り続け、発売の翌年に米国の研究拠点へ渡り、その2年後には別の応用技術として世界初の実用化まで届いた。
看板の話も同じだ。オセは9年10か月かけてキヤノンプロダクションプリンティングになり、Axisは11年たったいまも Axis Communications のままである。買った直後に何をどこまで揃えるかは、相手ごとに変えていいと、この記録は言っている。
新規事業の企画書には、たいてい「いつ黒字になるか」が書かれる。だがキヤノンの記録を見ていると、そこに並べておくべきものがもう1つあるように思える。この技術を、何年ぶん抱えるつもりなのか。それを先に書いておけば、3年目の会議で説明する言葉が変わってくるはずだ。